大村キリシタン史跡巡り


1563(永禄6)年、第18代領主大村純忠公(日本最初のキリシタン大名)が受洗し、領民の殆どがキリシタンになり、信徒6万、教会70を数えた日本の小ローマと呼ばれ、キリシタン王国となっていた大村は迫害が最も厳しく、多くの殉教者を出したが、処刑は殆どが放虎原の斬罪所で執行された。
 これら殉教者の内、大村最初の殉教者が出た1617年から1632年迄に、大村、長崎その他で殉教したキリシタンのうち205名に、1866年ローマ法王より聖者に列せられる前の「福者」の称号が贈られ、その百年祭を記念して「斬罪小屋」の跡に昭和43年に「日本205福者顕彰記念碑」が信徒らの浄財によって建てられ、毎年此処で日本各地から巡礼団千数百名を集めて「大村殉教祭」が盛大に行われている。
 記念碑のレリーフは中田秀和氏の作で、レオ田中伝道師を中央に、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の神父たちと、日本人修道士、神学生、神父の宿主、幼児とその母イザベラ(日本婦人)等を表している。

<鈴田牢跡>

 元和3年(1617)7月より同8年(1622)9月まで、長崎奉行所で捕えられた神父や信者35名を閉じこめた牢屋の跡。
 スピラノ神父ら25名は、元和8年9月9日 長崎へ送られ、翌10日西坂で殉教し、フランコ神父ら8名も、9月12日大村放虎原で殉教した。

<妻子別れの石>

 ここは江戸時代の大村藩処刑場(斬罪所)の入口に当たり、明暦3年(1656年)に発覚した郡村のキリシタン608名の内、131名はここから800メートル離れた放虎原の刑場で斬首されたが、此処で家族の者と別れの水盃を交わし、200名の警護の役人に引き立てられて行き、処刑されたのである。別れに来た人達の中には我が子を、我が親をキリシタンと言って密告したものもいたのである!
 キリシタンたちの別離の涙で濡らされたこの石は、昔から「涙石」と呼ばれ、苔も生えることがないと言われている。前には7個の石が並んでいたが、現在3個しか残っていない

<佛谷(ほとけだに)キリシタン洞窟>

 1617年の最初の殉教に始まった迫害の嵐が一時終わって、20年後の1657(明暦3)年になって、郡川流域の佛谷の洞窟を中心に潜伏キリシタンたちが発覚し、608名が検挙され、内411名が処刑(131名は放虎原で斬首)牢死78名、終身刑20名等の形に処せられた。これを「郡崩れ」(こおりくずれ)と言う。
 その発端となった洞窟は、大村の信徒らによって1988年10月に発見、確認された。

<放虎原殉教地(斬罪所跡)>

 1657年(明暦3年)10月11日に端を発した郡崩れのため、大村藩郡村(現在の大村市の竹松・福重・松原地区の総称)中心に多くの潜伏キリシタンが捕えられ、実に608名の多きに及んだ。吟味取り調べの結果、赦免99名、牢内病死78名、永牢20名を除いた411名が斬首された。
 大村の放虎原で131名、長崎で123名、平戸で64名、島原で56名、佐賀で37名と5カ所でそれぞれ1658年(万治元年)7月27日を期して一斉に処刑された。
 大村では131名が放虎原処刑場に造られた桟敷内において次々に打首となり、真理の証しの大殉教を遂げ、斬首された首は獄門にかけられた。
※潜伏キリシタン殉教碑浮彫(銅板レリーフ)(田中秀和先生作)
・この浮彫りは殉教者等が最後まで強い信仰をもって、神の国へ憧れ、神もまた彼らの心を慰め励ましたことを表しているものです。

<獄門所跡>

 放虎原斬罪所で罪所で斬首された131人の首は、当時の習慣に従い塩漬けにした上で、ここにあった獄門所で見せしめのために晒し(さらし)首にした。
 ここは当時、長崎から江戸に向かう大名行列も通る街道筋で、人通りの多い所であった。

<胴塚跡>

 首塚より500メートル離れた桜馬場の国道沿いの竹林中にあり、放虎原で斬首された131人の首は獄門所で晒し首にされ、胴体だけを大八車で運んで、2箇所に穴を掘り、分けて埋めたと伝えられている。

<首塚跡>

 放虎原の刑場で斬首され、晒し首にされたキリシタンの首は胴塚から500メートルも離れた竹松のこの地の大きな榎の根元に埋められた。首と胴を別々に離したのは、キリシタンの妖術で生きかえることを恐れたためであるという。
 戦前にはこの地のすぐ近くに竹松教会が建てられていたが、軍の命令で田の平の谷間に移転させられた。

<今富キリシタン墓碑>

 日本最古と言われるキリシタン墓碑。大村純忠公と共に受洗した家巨一ノ瀬越智相模栄正の墓碑であり、迫害のためにキリシタン銘を隠すために墓碑を起こして立て、表面に仏教の戒名を刻んで偽装してあったものである。
 大村-鹿島街道(未通)の田下(たじも)付近、郡川の川岸の林中には一ノ瀬一族の墓所がある。郡川流域は佐賀-鹿島からの侵入を防ぐための要所で、一ノ瀬一族が警備に当たっていた。

<大村純忠終焉の地>

 ドン・バルトロメオ大村純忠公は晩年、長男喜前を人質に取られていた佐賀の竜造寺の圧力により、領主の座を喜前に譲って、此処にあった坂口の館に引退し、ひたすらキリシタンの信仰に明け暮れる余生を送り、1587年(天正15年)5月24日、55才の波乱に満ちた生涯を終え、その遺骸は自らが建てた三城城外の「おんやどりの聖母堂」に埋葬された。遺欧少年使節らの帰国3年前のことだった。
 昭和63年5月29日、坂口の館跡の谷間に400年前に少年使節たちが持ち帰った印刷機により印刷されていたグレゴリアン賛美歌「リベラメ」の追悼歌がこだました。純忠公の逝去400年追悼祭がこの館跡で挙行されたのである。
 今、館跡には澄み切った湧水が尽きることなく流れ出て「館の川」と呼ばれている。



資料提供 轄同タクシー様

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